無知の知

ソクラテスの「無知の知」

前回の投稿では、私が如何に周りの方の苦しみに無知だったか、という話をしました。そこで、今回は「無知の知」についてお話しさせていただきたいと思います。もともとこの考えは、哲学者のプラトンが論じたものです。彼が自分の師であるソクラテスの最期の日々を著した、ソクラテス3部作に書かれています。

さて、このソクラテスという人物は、人類史上最も頭が良かったであろうと言われています。推定された知能指数が300あったという計算は眉唾ものです。しかし、彼がずば抜けた知性の持ち主だったことについては、疑う人はまずいません。残されている逸話から判断する限り、このことについて疑問を差し挟む余地はないでしょう。なぜこんなに頭がいい人が「無知の知」などということをいいだしたのでしょうか。

デルファイの神託

ソクラテスはデルファイの巫女によって「お前は世界中で1番賢い」と言われました。しかし、真面目な彼はこの神託にどうしても納得がいきません。そこで、その神託が間違っていることを証明することにしました。

そのために彼は世間一般に賢いとされている人達を訪ねました。詩人、政治家、職人を質問責めにして、自分が知らないことを聞きだそうとしたのです。が、結局彼らは自身が思っているほど賢くないことが、すぐにわかってしまいました。このことからソクラテスは次の結論を出しました。このような人たちと違って、自分は自身の無知を知っている。だから、自分のほうがまだマシである、と考えたのです。

パーキンソン病という謎

さて、私がこの話を長々としたのは、この「無知の知」という態度が、パーキンソン病、ひいては自分にとってのあらゆる未知の体験を理解しようとする上で、ほとんど唯一の理性的な態度なのではないか、と私が考えるようになったからです。

私は大学院で臨床心理学を専攻していたときにパーキンソン病に一通り勉強しました。老人ホームでの実習で、パーキンソン病の患者のかたと接する機会もありました。しかしながら、私は実際に自分がこの病気にかかったときに、自分がこの病気についてほとんど何も知らなかったことに気付いて愕然としました。

パーキンソン病と「無知の知」

しかしながら、別にこれは特に私が勉強不足だったわけではないのです。ましてや専門書の著者が致命的なミスを犯したわけでもありません。このことが示しているのは、ただ単に人間は実際に自分が体験していないことについて、ほとんど何も理解していない、というだけのことなのです。

例えば、この病気の患者に逃げ場は全くないということは、強調すべきでしょう。薬が効いていないときに体を動かそうとして感じる強烈な不快感は非常に独特なものです。たとえ薬が効いていたとしても、完全に消えてなくなるわけではありません。これは別に横たわったから楽になるというようなものではないのです。

個人的体験

もちろんこの病気についての客観的、医学的知識に関しては、専門家のほうが私よりも詳しいのは当然です。が、専門家の方々は、「私がこの病気をどのように主観的に体験しているか」については、全くと言っていいほどご存じないのです! ましてや「この病気がどのような意味を私の人生において持っているのか」という点についてはなおさらです。これは私にとっては晴天の霹靂でした。

誤解と無理解

この病気の診断が下されてから、日常生活の中で周りの人間に怠けているのではないか、と思われることはよくありました。もう流石にこのような誤解には慣れました。わざと症状が重く見えるように大袈裟に振る舞っているのではないか、という無理解についても同様です。

しかしながら、人生は生きているという事実を実感する機会に欠くことはないようです。以前入院中にそこのスタッフに補助金の不正利用を疑われたことがありました。そのせいで病院中を追いかけれて質問攻めにされたのには、本当にうんざりしました。そのリハビリの専門医の方は、私の担当ですらなかったのです!

また、パーキンソン病の患者には神経質な人が多いという研究結果があります。これを曲解して、性格を変えればこの病気は治る、と信じて疑わない方がいたのです。これは論理的に全く整合性のない珍説です。このときには、よくこんな患者の前で言えるなと心底呆れました。

無理解と孤独

前回の投稿で、パーキンソン病の患者さんのお話をさせていただきました。病室で体が固まって動けなくなっていた方のことです。私がこのおばあさんのことが特に気にかかったのは、症状の重さもさることながら、そのおばあさんがどれほどの孤独を感じていたのか、想像もつかなかったからです。もちろん超多忙な病棟のスタッフに悪気はなかったのでしょうが、自分の部屋の前にゴミを積み上げられて、それに対して文句を言うことすらできないのです。

私個人の経験では、この病気による孤独感というのは、病気そのものの症状よりはるかに耐えがたいものです。あなたがこの病気にかかっているところを想像してみてください。少し体を動かすだけでも、針のむしろにくるまれているような痛みが伴うのです。それなのに、周りの人はあなたのことをどうしようもない怠け者だと思っていて、説明しようにも自分は喋ることすらおぼつかないのです。このことに気付いたときほど、私が「無知の知」がいかに重要か、痛感したことはありませんでした。

悲劇的楽観主義

私が脳深部刺激療法の手術を受けられたのは、まったくの僥倖でした。病院のスタッフの方々の超人的努力のおかげです。コロナのパンデミックという未續の危機の真っただ中だったので、なおさらです。実際に、検査入院の結果手術を断られた、というケースもありました。このような方たちの絶望たるや、私には想像もできません。

いろいろと暗い話ばかりしてしまいました。が、今の私には、この投稿を読んでいる方に偽りの希望を与えることは、取り返しのつかない裏切りに感じられるのです。人間として生きている以上、どのような状況にあっても救いはあります。このことについては、私は確信しています。が、よく生きてよく死ぬのは、誠に困難なことです。まさしく「死に物狂い」の努力が必要なのではないでしょうか。

参考文献

プラトン (1964). ソクラテスの弁明 岩波文庫

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