パーキンソン病を通して学んだ「無知の知」の大切さ

ソクラテスの「無知の知」

前回の投稿では私が如何に周りの方の苦しみに無知だったかという話をしました。このことがきっかけで、私は「無知の知」について考えるようになりました。「無知の知」というのは、自分自身の無知を自覚しているということです。もともとこの考えは、哲学者のプラトンの著作の中で彼の師であるソクラテスが論じたものです。自分自身のパーキンソン病の体験を通して、私はこの態度が決定的に重要であることに気付かされました。

理性的な態度としての「無知の知」

私はこの「無知の知」がパーキンソン病を理解する上で唯一の理性的な態度なのではないか、と考えるようになりました。私は大学院で臨床心理学を専攻してパーキンソン病についても勉強しました。しかし私は実際に自分がこの病気にかかったときに、自分がこの病気についてほとんど何も知らなかったことに気づいて愕然としました。

しかしこれは特に私が勉強不足だったわけではないのです。ましてや専門書の著者が致命的なミスを犯したわけでもありません。このことが示しているのは、ただ単に人間は実際に自分が体験していないことについてほとんど何も理解していないというだけのことなのです。

例えば、この病気の薬が効いていないときに体を動かそうとして感じる強烈な不快感は非常に独特なものです。たとえ薬が効いていたとしても、完全に消えてなくなるわけではありません。これは別に横になったから楽になるというようなものではないのです。しかし、専門家の方々は私がこの病気をどのように主観的に体験しているかについては、全くと言っていいほどご存じないのです。 ましてや「この病気がどのような意味を私の人生において持っているのか」という実存的な問いかけについてはなおさらです。これは私にとっては青天の霹靂でした。

パーキンソン病に対する誤解と無理解

この病気の診断が下されてから、私は周りの人達に怠けているのではないかと思われることがよくありました。わざと症状が重く見えるように大袈裟に振る舞っているのではないかと思われたこともありました。

一番ひどかったのは、以前入院中にリハビリの専門医に補助金の不正利用を疑われたことでした。ただでさえ手術後で疲れていたのに、病院中を追いかけられて質問攻めにされたのには本当にうんざりしました。

また自信満々に自分たちの間違った考えを押し付けようとする人たちにも辟易としました。パーキンソン病の患者には神経質な人が多いという研究結果があります。これを曲解して、性格を変えればこの病気は治ると信じて疑わない方がいたのです。

パーキンソン病の孤独

前回の投稿で、病室で体が固まって動けなくなっていたパーキンソン病の患者さんのお話をさせていただきました。私がこのおばあさんのことが特に気にかかったのは、症状の重さもさることながら、そのおばあさんがどれほどの孤独を感じていたのか、想像もつかなかったからです。もちろん超多忙な病棟のスタッフに悪気はなかったのでしょうが、自分の部屋の前にゴミを積み上げられて、それに対して文句を言うことすらできないのです。

この病気による孤独感は、病気そのものの症状よりはるかに耐えがたいものです。想像してみてください。少し体を動かすだけでも、針のむしろの上にいるような痛みが伴うのです。それなのに、周りの人はあなたのことをどうしようもない怠け者だと思っているのです、そして説明しようにも自分は喋ることすらおぼつかないのです。

次に怠けているよう見えるかたを見かけたら、想像してみてください。このかたは怠けているように見えるが、そうではないのかもしれないのだと。実は体が不自由なだけなのかもしれないのだと。このかたの一歩一歩は地獄の苦しみなのかもしれないのだと。また、自分もいずれこうなるのかもしれないのだと。

私が自分自身にこのような問いかけをしたときに、私は自分がそれまで本当に何も知らなかったのだということ気がつきました。それは不思議な開放感を伴う体験でした。この無知の知という態度は、パーキンソン病に限らず、あらゆることに対する知的好奇心を掻き立ててくれます。お勧めです。

参考文献

プラトン (1964). ソクラテスの弁明 岩波文庫

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