無理解からの救済:パーキンソン病患者の声なき声

無理解についての気づき

パーキンソン病[1]に罹患してから、私は思い通りに体を動かす自由を失いました。しかし、私はこの病と引き換えに、この世の中に満ちあふれる病の苦しみ、そしてそれに対する無理解についての気づきを得ました。かつて健康そのものだった私は、この現実に対して全く無頓着でした。私自身がこの無理解の一部だったと言っても過言ではありません。本稿は、病と共に生きる人々の声なき声を届け、苦しみを和らげるための道を探る試みです。

無理解を生きる現代のシーシュポス

脳深部刺激療法[2]を受ける前の私は、毎朝、耐え難い苦痛と共に目覚めていました。睡眠中に体がまるで鉛のように重く、硬くなってしまうのです。パーキンソン病治療薬のL-ドーパ[3]の効果が睡眠中に切れてしまうのです。それでも、薬を飲むためには、この動かない体を無理やり動かさなければなりません。その度に、全身を貫くような激痛が走りました。自分の手を5センチ動かすことすら、1分間の苦痛に満ちた努力が必要でした。震える手で薬を床にぶちまけることもしばしばでした。そして、自分の体は毎朝確実に悪化していきます。

それは、暗闇の中を永遠に転がり落ちるような絶望でした。まるで、シーシュポスの神話[4]のように、終わりなき苦役を課せられた気分でした。このような苦しみが、毎朝繰り返されました。このような生活がどれほどの拷問であるか、私は想像すらしていませんでした。心理学や医学の文献には、このような実存的な苦しみは書かれていませんでした。現代科学は、人間の心の底にある苦悩に対して、あまりにも無力だと痛感しました。

無理解は続く

しかし、冷静に考えてみれば、それも当然なのかもしれません。このような重度の症状に苦しむ患者はまず回復しません。ましてや自らの体験を語ることは、奇跡に近いことなのでしょう。私がこうして文章を書けていること自体が、信じられないほどの幸運なのです。その事実に気づいたとき、私は言葉を失いました。

さらに私を打ちのめしたのは、私の体験は決して特別なことではないという現実でした。同じように苦しんでいる人は、世界中に数えきれないほどいるのです。しかし、彼らの多くは、自らの声でその苦しみを訴えることすらできません。彼らの声なき声は、社会の喧騒にかき消されています。そしてそれは深い孤独と絶望の中で、今日もなお病棟の片隅で響き続けているのです。

無理解という砂漠

病棟でひとりでリハビリをしていたときに、私はそのような患者さんと出会いました。病室の中にいる車椅子に座ったおばあさんの様子が変でした。よく見ると上半身を完全に折り曲げたまま固まっていたのです。

彼女が重度のパーキンソン病患者であることは明らかでした。ドーパミン[5]不足により、体幹[6]の筋肉が機能せず、上半身を支えられなくなっているのです。そして、彼女が想像を絶する苦痛の中にいることもすぐにわかりました。体が突然動かなくなることは、転倒や怪我の危険と隣り合わせです。しかし、パーキンソン病患者にとって、姿勢を維持することは簡単ではありません。凄まじい努力と苦痛を伴うのです。

私はこのままでは何も解決しないと思い、その方の歯ブラシを棚に戻しました。そうしたら今度はその方が「水・・・」とおっしゃいました。水差しを口元に運ぶとゆっくりと水を飲まれました。彼女はまるで砂漠の真ん中で、オアシスを求めてさまよう旅人のようでした。その方がそんな状態でどれだけの間苦しんでいたか、想像しただけでめまいがしました。

無理解の象徴としてのゴミの山

その後も、私は彼女のことが気になり、たびたび様子を見に行きました。ある日、彼女の病室の前で、私は目を疑う光景を目にしました。ナースステーションの向かいにある彼女の部屋の入り口に、医療廃棄物のゴミ袋が山積みになっていたのです。ゴミ袋は、病室からも見える位置にありました。まるで、彼女の存在そのものが、ゴミのように扱われているかのようでした。

無理解の象徴としてのゴミの山

もし私が彼女の立場だったら、すぐにでも片付けてもらうでしょう。しかし、彼女は意思疎通が困難なのか、ゴミ袋は翌朝になってもそのまま放置されていました。私はそれをみたときに、深い無力感に襲われました。また効率の名の下に人間の尊厳が失われようとしているのをみて、私は何かをしなければならないと強く思いました。幸い、病院スタッフに知り合いがいたので、連絡してゴミ袋を片付けてもらうことにしました。

無理解へのささやかな復讐

しかし、私の心はまだ晴れませんでした。ちょうど新型コロナウイルス感染症の第6波のピークを迎えていて、病棟スタッフは対応に追われ疲弊している様子でした。彼らを責めることはできません。彼らもまた、この無理解なシステムの犠牲者なのでしょう。

私は、いても立ってもいられず、病棟を抜け出して売店へ向かいました。そして、美しい薔薇のドライフラワーを買って、彼女の病室に持っていきました。「見ている人はいます。どうか諦めないでください」と私は彼女に伝えました。私は、彼女に何か特別なことをしてあげたかったのです。それは、無理解に対するささやかな抵抗でした。

その日は、やはりほとんど反応がありませんでした。しかし、次の日、病室を訪れると、彼女は、動かないはずの体を私に向けて、はっきりと「ありがとうございました」と言ってくれたのです。

無理解という苦しみの音を観ずる

「観音」もしくは「観世音菩薩」の英訳は”Sound Observer”、つまり「音を観察するもの」です。これは、非常に深い意味を持つ言葉です。観音様は、世の中のあらゆる場所に目を向け、人々の苦しみや助けを求める声に耳を傾ける存在だとされています。また、お釈迦様が、城を出て初めて病気、老い、死、そしてそれらに伴う苦しみを目の当たりにしたとき、出家を決意したという逸話があります。私は、これらの教えの本当の意味を、パーキンソン病患者との出会いを通して初めて理解しました。「衆生無辺誓願度[7]」、つまり「限りない数の生き物をすべて救済することを誓う」という言葉の重みを、身をもって知ったのです。

Our Suffering Needs to Be Seen
(我々の苦しみに、誰かが気づかなければならない)

詩人の故星野富弘氏は、事故で脊髄を損傷し、首から下が麻痺しました。彼の最初の著作「愛、深き淵より。」には、こんな一節があります。

自分が正しくもないのに
人を許せない苦しみは 
手足の動かない苦しみを 
はるかに上回ってしまった[8]

私は、彼の言葉に深く共感し、こう付け加えたいと思います。

自分が人に理解してもらえない苦しみは
手足の動かない苦しみを 
はるかに上回ってしまった

千手観音の無数の手の一つ一つには、救いを求める人々が必要とするものが詰まっていると言われています。私たち人間は、社会的な生き物です。だからこそ、お互いの苦しみに共感し、行動を起こすことが、救済への唯一の道なのです。私は、声なき声を代弁するために、この文章を書いています。あなたには、この理不尽な無理解を少しでも減らすために何ができますか?

注釈

  1. パーキンソン病: 脳の神経細胞が徐々に変性し、運動機能に障害が生じる進行性の神経変性疾患。
  2. 脳深部刺激療法: パーキンソン病の症状を改善するために、脳の特定の部位に電極を埋め込み、電気刺激を与える手術。
  3. L-ドーパ: パーキンソン病の治療薬として使用される、脳内でドーパミンに変換される物質。
  4. シーシュポスの神話: ギリシャ神話に登場するシーシュポスが、罰として大きな岩を山頂まで運び上げることを永遠に繰り返す物語。終わりなき苦行の象徴として用いられる。
  5. ドーパミン: 脳内で神経伝達物質として働く物質。パーキンソン病ではドーパミンが不足することで運動障害が生じる。
  6. 体幹: 胴体の中心部を構成する筋肉群。
  7. 衆生無辺誓願度: 仏教用語で、「限りない数の生き物をすべて救済することを誓う」という意味。観音菩薩の誓願を表す言葉。
  8. 星野富弘 (2001) 愛、深き淵より。 新版 立風書房

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外部リンク

観音菩薩 (Wikipedia)

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