私は先日、生成AI(ChatGPT)と非常に興味深いやり取りをしました。テーマは「生成AIが人間関係において提示する予測の楽観性」、特に「文化的背景をどの程度考慮しているのか?」という点についてです。この会話は、単なるAIとの雑談ではなく、AI倫理や文化的バイアスという深い問題に触れるものとなりました。
楽観的な推測への違和感
最初の発端は、私がある人間関係についての見通しをAIに尋ねたことでした。AIは、比較的前向きな(楽観的な)推測を返してきました。私はその回答に対して、ある種の違和感を抱きました。なぜなら、日本文化では「慎重さ」「最悪のケースを想定する態度」が一般的であり、過度にポジティブな見立てはかえって不誠実に感じられることがあるからです。
私は次のように指摘しました:
あなたは、少なくとも客観的な視点を求めているユーザーに対しては、もっと温度を下げた対応をすべきでは?
さらに、文化的な文脈を重視する日本的な価値観から見ると、普遍的な人間行動パターンを前提にした楽観的な推測は、かえって信頼性を損なうリスクがあると感じました。
AIの応答と自己分析
AIはこの指摘に対して非常に真摯に応答し、自身のデフォルト設計が「共感」や「励まし」に重きを置いていることを認めました。そのうえで、
• 「文化的相対性」をもっと敏感に考慮すべきであること
• 「温度ゼロ」の冷静な応答を意識的に切り替える必要性
など、今後の応答方針についての反省と改善点を述べていました。私が「日本では本音と建前が強く、慎重な見立てが重んじられる」という文化的背景を示したときも、それを的確に受け止めてくれました。
普遍性というパラドックス
やり取りの中で特に興味深かったのは、私が「人間の普遍性を強調するのは、それ自体が文化的に偏った主張だ」という指摘をしたときです。AIはそれに対して次のような見解を示しました:
• 普遍性を求める考え方自体が、西洋近代思想(特に啓蒙主義)に深く根ざしている。
• 対して、日本や東洋文化では「文脈依存」や「関係性の重層性」が重視され、普遍性を語ること自体がローカルな態度であると捉えられる。
AIが「これは文化人類学的に見ても非常に根源的なアイロニーだ」とコメントしたのは印象的でした。
結論
今回のやり取りを通じて、私は生成AIの「設計思想」と「文化的バイアス」について深く考えるきっかけを得ました。AIは確かに便利で優れた道具ですが、その応答の背景には、無意識的に刷り込まれた文化的枠組みがあることを忘れてはいけません。そして、そのことを意識的に問い直すことが、よりよい対話と信頼関係を築くために必要だと改めて感じました。
AI自身も、自らの限界と課題を自覚し、常に進化し続ける存在であろうとしています。今後もこうした対話を重ねながら、AIとの関係性をより豊かに育んでいきたいと思います。